英語力と恐怖

英語について考えるとき、10年前くらいにプレステ2で発売された「デメント」というホラーゲームのことを思い出す。主人公が西洋風の古城を探索しながら謎を解いていくゲームである。dementedは「発狂した」を意味する形容詞で、作中では色々とネジがぶっ飛んだような敵が追跡者として登場する。

デメントには、「パニック」というゲームシステムが存在する。主人公は臆病者で、敵が急に空から降ってきたみたいな予想外の出来事が起こると、パニックを起こしてプレイヤーのキー操作をまともに受け付けなくなる。ゲームバランス上、パニックを起こしてなかったらもう少しまともに対応できるだろという、まさにその局面でパニックを起こすので、大変いら立たしい。だがパニックにならないようにそのイベントを起こす方法もあるので、それを見つけられるかがゲーム攻略を有利にすすめる鍵になっている。

僕のこれまでの留学期間における英語は、ほぼ常にそのデメントで言うパニック状態であったような気がしている。

理系留学生の中には、帰国子女で元来強者のものも居るが、それとは別に「たいして英語は上手くないが確かに相手に伝わっている」タイプの英語を話す人が多い。これは情報の伝達レベルのコミュニケーションで済む理系分野の学生に多い英語で、幼少期にきちんとしたトレーニングを受けていない私のような英語弱者にとっては一つのロールモデル類型である。

彼らの特徴は、まず落ち着いていること。デメントで言えば完全に平静を保ちながら歩行している状態に相当する(デメントでは、走るだけで少しパニック度が向上する)。自分の英語に強いアクセントがあること、知識不足で自分の意見に間違いが含まれているかもしれないこと、相手の話が一部聞き取れておらず見当外れなことを言いかねないこと、自分の話すスピードが遅すぎて相手を苛立たさせるかもしれないこと、などに対する恐怖が一切ない。たまに聞き取れると全然大したレベルじゃないことを言っているだけだったりするのだが、自信を持っていかにもその発言が聞く価値があるかのように話すので、聞いている側はそのペースに呑まれる。おそらく聞いている側に「俺はこれだけ堂々と話しているのだから、これで分からなかったらお前のせい」というプレッシャーを心理的に与えているのかと思う。

次に、羞恥心でパフォーマンスを下げないこと。こちらの人間の会話を聞いていると、本当に全く謝らないので驚く。たとえば知識のミスをEメールで指摘する。すみませんという定型句ではなく、Thank you for bringing the matter to our attentionのように極めてポジティブな表現が返ってくることが多い。共同開発をしていて相手のコーディングミスでバグが発生したことを柔らかに指摘すると、Now it worksのように修正結果だけに言及する。同様にして、自分の達成事項のうちネガティブな部分に対する言及はほとんどなされない。たぶん彼らからすると僕(典型的な日本人)の情報伝達様式は謝り過ぎで、自分たちが作ったソフトウェアの限界について言及したスライドを見せた時に「これはスライドでは外しておこう」と薦められる事もあった。

以上の2つは仮に英語が上手くなったあとでも有効である。ただ、見ているに、ほとんどの人は伝わるようになったところでやめる。人間、満足したらそれ以上は目指さないのだろう。局所最適解。