米国大学院の計算機科学修士課程の意義について


修士課程について

恐ろしいことに、日本でのんびり修士に進学するゾ〜電情にしようかな計数にしようかな〜とかしている学生のほとんどは、海外大学院は入る時に修士課程(1.5-3年)に入るか博士課程(3-7年)に入るかを決めるということを知らない(僕も知らなかった)。そしてその「修士課程(Master)」と「博士課程(PhD)」が日本とは異質であることも知らない。

ものすごく単純化して言えば、海外のCS修士課程生は単なる金ヅルである。

ふざけたぐらいに高い授業料を払い、低い学内ヒエラルキー(英語喋れず学部生のクラブ的コミュニティに入れない、教授とのコネクションを作れる期間が短く大抵の教授からは空気)に甘んじ、たった10コしか授業を取れず、PhDと研究に打ち込む教授からは(ああ、彼らはゲストでしょ?)のような侮蔑の匂いをかすかに感じ、博士課程生と比べるとめっちゃ取りにくい奨学金と格闘する。

修士課程とはその苦境の代わりに、高給かつ知的好奇心が満たされるような技術職(ソフトウェアエンジニア等...データサイエンティストは語学の壁がある)に数年間応募できる(し、訓練されているから二桁ギリギリ行くぐらいの確率で着地できる)挑戦権を得る契約である。高給ってどれくらいかというと日本円で初任給が年収1000万超えることが多い。ソースは某おぐにゃん氏のツイートから。ネットで調べてもそれくらいで出てくるかと思われる。日本でそんな初任給のエンジニアは存在しない(自営業で数千万行ってる特殊な人たちは存在するが、外れ値)。


一方で博士課程(3−7年)は大学の新入社員である。彼らは否応なしにTeaching Assistantとして働かされ、慣れてくると教授なしで講義を任され、大学の主要機能である研究実施と論文執筆に勤しみ、大学から生活できるぐらいの給料を貰う。社割の代わりに講義は無料。研究に役立ちそうならガンガン取っていい。彼らの目的は基本的に大学研究者になるか企業のリサーチャーになることであり、講義は必修を適当に済ませ新しい知識を生み出すほうに全力を注ぐ。

この違いと、そしてこの全く異なる2つを大学院に入る時に決める、ということを忘れてはならない。

(誤解を招きかねないので強調しておきたいが、教授たちは実のところ修士課程生であるか博士課程生であるかはそれほど気にしていない。修士課程生でも研究系授業で教授を面白がらせる結果を出したり、講義で断トツの成績を取って優秀なTAとして業務を楽にしてくれたりすると、何の差別もなく気にかけてくれるようになる。単純に、彼らにとって講義を行うのは単に業務の一貫で、彼らは自分たちの研究を促進してくれる存在なら誰でも大切にするというだけの話だろう。そもそも修士課程生の一部は博士課程落ちで、トランスファーを狙って教授と研究したがっている人たちだったりもするのだ。現に知人のなかでも修士課程を終えそのまま博士にトランスファーする人も居る。このケースに限れば日本と似ているとも言える)


巷の多くの留学体験記はPhD課程生によって書かれたものなので博士課程進学を勧めている。なのでここで私が薦めるのは実にめずらしい海外  修士  課程進学である。

以下のパラグラフは多分に私の偏見が含まれており、学部時代の友人ですら賛成しないと言っているが、私はこう思っているので掲載する。

東大の修士課程は研究を体験してみることが存在意義になっている。だが進学する学生の大半は実際のところ研究者になろうとは考えていない。修士を終えたら日本企業でエンジニア、あるいは非専門職で働こうと思っている。博士落ちを除けば、アメリカの修士課程は先程述べた挑戦権を購入することが存在意義になっていると思う。これは移民制度が特定分野の優秀な労働力を取り込むことを前提にしている点を考えれば納得である。 日本の(一部の外れ値を除けば)ぬるい修士を終えて日本企業でエンジニアあるいは非専門職として働くのと、アメリカの修士を死に体で終えてAmazonGoogleFacebookAppleの本社でエンジニアとして働く(あるいは働くことを夢見ながらもう少し小さいところで働く)のとどちらが楽しいだろうか。それは個人の嗜好次弟だ。だから一度自分の心に従って比較してみてほしい。(あるいはスタートアップで一攫千金を夢見るのもいいだろうーーVisaの問題が絡んで更に大変になる気はするが。)